カテゴリー: ■オクムラ*コラム

あとしまつ

write by 奥村

4月4日よりプラスチック製容器包装の分別収集が始まります。

レジ袋、お菓子の袋、卵のパックはプラゴミとして分別。納豆のパック、マヨネ-ズやケチャップの容器、歯磨き粉容器は洗ってきれいにしてから廃棄しなければなりません。

また1日よりコンビニエンスストアやスーパ-で無料に配布されるプラスチック製のスプ-ンなどの使用量を減らす「プラスチック資源循環促進法」が施工されました。

削減対象となるのがストロ-、スプ-ン、マドラ-、ホテルが提供するヘアブラシや歯ブラシ、クリ-ニング店のハンガ-など12品目です。

スプ-ンやストロ-など今まで当たり前に商品の販売やサービスに付随して無償で提供されてきましたが、それより、その「あとしまつ」の方が問題視されてきています。

食品の廃棄対策も同じで、大量につくって売る事よりも、フードロスをいかに少なくするかという事の方がむしろ重要視されてきています。

つまり何かをつくる場合は必ず行く末を考えなければいけないという事です。

 
その最たるものが家です。

将来親が亡くなり、相続が発生すればその「あとしまつ」を否応なしに子供がしなければなりません。

遺された実家をどうするかという問題に必ず直面するのです。

あとしまつをする方法として、

1.売却する 2.貸す 3.取り壊す 4.放置する 5.住む

大きく分けるとこの五つの選択肢になるかと思いますが、その中でも放置されることが比較的多いそうです。

その大きな理由として、親が家の中に残した家財を処分することに途方に暮れるケースが多いそうです。

とくに物を大量に購入してきた世代です。

かたずけるには途方もない労力と時間を要します。

実は私も実家を処分するときはこの家財のかたずけが本当に大変でした。

当時若いからできましたが、いまではとても無理な作業です。

しかしながら子供にこんな思いをさせたくないと、生前自分が元気なうちに「あとしまつ」の準備する事などなかなかできません。

その結果次の子供世代に先送りされ、そこで管理の大変さを経験した子世代が、これは次の世代に持ち越していけないこと気づきます。

そしてようやく「あとしまつ」の行動を起こすケースが多いように思います。

そんな「あとしまつ」のことが日本経済新聞の記事でこんな風に書かれていました。

 

「大怪獣のあとしまつ」という映画が公開されていましたが、それは時代感覚を反映している。ウルトラマンは怪獣を倒すことが目的だ。目の前の敵を倒せば、世界の平和は守られる。それは作ったものを売るという一義的な目標を実現すれば、完結してしまう昭和の経済モデルと似ている。ところがたくさん作り、大量に陳列することが「正義」だったのは遠い過去。ものをつくってもなかなか売れなし、その「あとしまつ」の方が問題視されている。

 

確かにその通りだと思いました。

これからは「あとしまつ」がつくることより重要なのかもしれません。

ヨコソラ-レ

write by 奥村

北京冬季オリンピックは日本のメダル獲得数が冬季五輪として過去最多となり閉幕しました。

その中でも大会の最終日まで注目を集めたのがカーリング女子日本代表チ-ムのヨコソラ-レ。

カーリングは氷上にスト-ンを滑らせ、ハウスと呼ばれる円の中心に近づけ、その点数を争うスポ-ツですが、日本の女子代表選手はいつも笑顔でゲームを楽しんでいる雰囲気が時折感じられました。

カ-リングはスケ-トやスノ-ボ-ド、スキ-などと比べ、スピ-ド感のある激しい競技ではないので、人間離れしたアスリ-トのパフォ-マンスを感じるというよりも、「氷上のチェス」と言われるだけに相手との駆け引きや、正確にスト-ンを置くための技術など他の競技とは違う魅力を感じます。

ですから、当然他のアスリートと同様厳しいトレーニングを積まれているとは思いますが、どこかしら代表としてそうした辛い練習を乗り越えた重圧感をむしろ感じさせない緩さがあり、見ている方も肩の力を抜いて観戦することができるスポ-ツではないかと思います。

イギリスに決勝で敗れ選手たちは本当に悔しいとは思いますが、そのスポ-ツの面白さや魅力を伝えるには、選手自身が楽しんでいる様子が一番だと感じました。

新年スタート

write by 奥村

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

2022年がはじまりました。

昨年は私にとって社員の皆様、お客様、協力業者様、仲間、家族に生かされていることを深く感じた年でした。

多くの方とのご縁をいただき、そしてその方々にたくさんの学びを頂きました。

ここの場をお借りし心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 

さて、今年の目標を言葉で表すと「活路」です。

これは窮地から逃れて生き伸びるという意味ではなく、顧客様や地域社会、そして何より社員さん個々の力が社会に活かせる路を切り開く、という思いでこの言葉を選びました。

今まで以上に建築という枠を超えて、社会にお役に立てることを実践していきます。

その「活路」第一弾として、2月に『あきらめていたコト、解決します!』というイベントを開催します。

暮らしの中でどうすればよいかわからないコトや解決できなくてあきらめているコトを解決する、という寺小屋的イベントです。

詳細は決定次第ご案内いたしますが、今までのような建築屋のイベントではないものをお届けしたいと考えています。

また4月より『ミドリバシ食堂』を本格的に営業します。

まちづくりをしている私たちが実際に空き家を再生し、大垣市の暮らしを楽しんでもらえるような場をつくっていきます。

主軸である住宅と建築の設計業務もよりお役に立てるように進化させていきます。

世の中は依然コロナで大変な状況が続いておりますが、縁を育み頑張ってまいりますので何卒よろしくお願いいたします。

モルック

write by 奥村

何か聞いたことある話だな。。。と思われる方もみえるかもしれませんが(以前同じモルックの話題で西垣がコラムを書いています。笑)どうぞお付き合いください。

 

皆さんはモルックというマイナ-スポ-ツをご存じでしょうか。
すでにご存じの方は多いと思いますが、お笑い芸人のさらば青春の光の森田さんがテレビ番組で紹介し、森田さん自身が世界大会へ出場したことで有名になったマイナ-スポ-ツです。

モルックは1966年にフィンランドで生まれたスポ-ツらしく、フィンランドの人はサウナに入った後、ビールを飲みながら仲間とモルックを楽しむそうです。
モルックに必要な道具は直径6cmの木製のピン。
投げるのに使うピンをモルック、標的となる12本のピンをスキットルと呼びます。
スキットルには1~12までの番号が書いてあります。

初めに置く配列は決まっています。
モルックを投げてスキットルを倒すのですが、ピンを1本倒すとピンに書かれた点数が得点されて、二本以上倒すと、その倒れた本数が1本1点として点数に加算されます。
最初に50点ちょうどになったプレイヤ-が勝ちになります。
しかし50点を超えてしまうと、25点からやり直しになります。また三回連続で倒せなかった場合は失格となるというとても分かりやすいスポ-ツです。

年を取るとこうした力のいらないスポ-ツに興味がわくようでやってみたくなり、モルックの道具をamazonで検索したら、なんと数字の書かれただけの木の棒が7900円もしました。

どうやら流行したので値段も上がっているのだと。
それなら手作りしたほうがよいと思いました。
だって材料に必要なのは丸い太い棒のみです。
製材コーナ-にはそれだけ太い丸材は置いてはいません。
そこで樹木の支柱を探しに行くとちょうど60φの支柱があったのでそれを購入。
2本で1000円程度でした。
スライド丸のこでサクサク刻み30分で出来上がり。
ペーパ-を掛けて油性マジックで番号を書き1時間で完成です。

出来上がると、さっそく奥さんとゲームをしました。
投げる位置から3.5mの位置にスキットルを配列します。
必ずモルックは下から投げることがルールです。
倒れたスキットルはその根元から起こします。
回数を重ねていくとスキットルは散らばり、終盤になるといちょうど50点になるように、本数を倒すか、その点数のピンのみを倒すか駆け引きが起こります。

48点で回ってきた私が最後二本のスキットルを倒して勝利となりました。
これは頭も使うしなかなか面白いスポ-ツだと思いました。
キャンプやバーべキュ-をしながら仲間と競い合うと盛り上がる事間違いなしです。
どこでも場所を選ばないのも魅了の一つだと思いました。

記念メダルと旅の思い出

write by 片桐

旅先でたまに見かける記念メダルの自販機。

別途料金で刻印もできる。

しかし、旅の思い出に購入する人は少ない。

メダル自販機前、子供が『ほしい』とねだる。

親は『買ってどうするの』と一撃を与える。

その目の前でメダルを購入する私。

子供からは熱い視線・大人からは冷めた視線。

長女の社員旅行にもお土産にメダルをおねだり。

同僚から『お母さん斬新』って言われたらしい。

次女は頼まずとも買ってきて、場所の風景や

売り場の状況など事細かに教えてくれる。

長男の記念メダル初めてのお土産購入デビュー。

カウントダウンが始まった。

とにもかくにも、メダルを見れば蘇る思い出は

昨今のお出かけ規制疲れを癒してくれる。

中村久子の生涯

write by 奥村

『中村久子の生涯』という本を読みました。

中村久子さんは、明治30年11月25日に岐阜県高山市で生まれ、3歳で突発性脱疽(肉が焼け骨が腐る病気)にかかります。
医者から両足とも切断しなければならないと聞いた両親は、いきなり降りかかった災厄にうろたえるばかりで、「わが子の病気を治せ給え」と、藁をもすがる思いで天理教に足しげく通いました。
家は貧しい畳屋暮らしで、蓄えは医者代と天理教への奉納に消えました。

それでも手足を切らないで済ませようと翻弄しているうちに月日は流れ、ある日、母あやが久子を炬燵のそばで寝かし、台所片付けを終えると、床に繃帯が落ちていました。
何気に拾い上げた繃帯の中には、真っ黒になった久子の左腕がありました。
五本の指が付いたまま、自然にもげ落ちていたのです。

そこでついに、両腕両足を切断することを決心しました。

久子は6歳の時に失明し、父親がなくなります。
失望したあやは、手足のない久子をおぶって川に飛び込もうとしましたが、思いとどまり、その後久子を何でも自分でできるように厳しく躾けていきます。

「できるまでやってみることです。やれないのは、やってみないからです。」

と母の叱りを受けながら失敗を繰り返すうちに、久子の心は『いつか必ずできる』という思考へと変わっていきます。
そのうちに刺繍、編み物、掃除、洗濯、書道、料理と、何でもできるようになっていきました。
なんと口の中で針の穴に糸を通すこともできるようになったというのです。

しかしそこには、血のにじむような努力があり、
「私にとってどんなことも、易々とできあがったものはございません。言い表すことのできない難儀と苦労の果てにできあがったのでございます。しかしここまでできたのも、みな母の厳しい躾けによるものでございます。思えば冷たい母の仕打ちは、何物にも勝る愛情だったのですね。」
と語っています。

さらに母は
「人間は働くために生まれてくるのです。できないとは何事ですか。」
と叱り続けます。

20歳になった久子は、母の躾け通り、自分で働いて生き抜くことを選びます。
そして見世物小屋に入ることを決心します。
『だるま娘』として、名古屋の大須堂の宝座で初舞台を踏みました。
大正6年12月には、大垣駅にも巡業に来たことが本に書かれていました。

そして23歳で結婚し、長女を出産し喜びも束の間、夫が病死します。

ここまでの人生だけでも激動の人生ですが、とてつもない努力と強い精神力で、自ら人生を切り開いて生き抜いてこられる姿を読むと、自分はどれだけ恵まれているかが身に沁みました。

その後もすさまじい人生を送られますが、やがてこの生き方に感銘を受けたヘレンケラ-が3度も久子さんと面会をします。
また、身体障碍者の模範として厚生大臣賞を受賞し、天皇陛下からお言葉を賜ります。
久子は生涯一切公的な扶助を受けませんでした。

「いただかんでよかった」
「見世物小屋の住人でも、働かしてもらったことは大きな幸せだった。天皇陛下も厚生省も、見世物小屋におった住人でも、人間の一人としてあつかってくださったことは大きな感謝でございました。それからというものの、できるだけどんな人ともなるべく自分の力で働いていくよういつも申します。どんなところにも生きていく道はございます。」
と最後に語っています。

両手両足がないと嘆くよりも、人として生かされていることに感謝しながら生き抜かれた人生にただただ敬意を払う事以外思い浮かばないほどでした。
あれがない、これがない、あの人が悪い、世間が悪いなど私たちはとかく自分の境遇を他人や社会のせいにしがちですが、中村さんの生き方を読んで、自分で道を開く強さを自分自身が持たないといけないと改めて深く感じました。

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