write by 奥村

『中村久子の生涯』という本を読みました。

中村久子さんは、明治30年11月25日に岐阜県高山市で生まれ、3歳で突発性脱疽(肉が焼け骨が腐る病気)にかかります。
医者から両足とも切断しなければならないと聞いた両親は、いきなり降りかかった災厄にうろたえるばかりで、「わが子の病気を治せ給え」と、藁をもすがる思いで天理教に足しげく通いました。
家は貧しい畳屋暮らしで、蓄えは医者代と天理教への奉納に消えました。

それでも手足を切らないで済ませようと翻弄しているうちに月日は流れ、ある日、母あやが久子を炬燵のそばで寝かし、台所片付けを終えると、床に繃帯が落ちていました。
何気に拾い上げた繃帯の中には、真っ黒になった久子の左腕がありました。
五本の指が付いたまま、自然にもげ落ちていたのです。

そこでついに、両腕両足を切断することを決心しました。

久子は6歳の時に失明し、父親がなくなります。
失望したあやは、手足のない久子をおぶって川に飛び込もうとしましたが、思いとどまり、その後久子を何でも自分でできるように厳しく躾けていきます。

「できるまでやってみることです。やれないのは、やってみないからです。」

と母の叱りを受けながら失敗を繰り返すうちに、久子の心は『いつか必ずできる』という思考へと変わっていきます。
そのうちに刺繍、編み物、掃除、洗濯、書道、料理と、何でもできるようになっていきました。
なんと口の中で針の穴に糸を通すこともできるようになったというのです。

しかしそこには、血のにじむような努力があり、
「私にとってどんなことも、易々とできあがったものはございません。言い表すことのできない難儀と苦労の果てにできあがったのでございます。しかしここまでできたのも、みな母の厳しい躾けによるものでございます。思えば冷たい母の仕打ちは、何物にも勝る愛情だったのですね。」
と語っています。

さらに母は
「人間は働くために生まれてくるのです。できないとは何事ですか。」
と叱り続けます。

20歳になった久子は、母の躾け通り、自分で働いて生き抜くことを選びます。
そして見世物小屋に入ることを決心します。
『だるま娘』として、名古屋の大須堂の宝座で初舞台を踏みました。
大正6年12月には、大垣駅にも巡業に来たことが本に書かれていました。

そして23歳で結婚し、長女を出産し喜びも束の間、夫が病死します。

ここまでの人生だけでも激動の人生ですが、とてつもない努力と強い精神力で、自ら人生を切り開いて生き抜いてこられる姿を読むと、自分はどれだけ恵まれているかが身に沁みました。

その後もすさまじい人生を送られますが、やがてこの生き方に感銘を受けたヘレンケラ-が3度も久子さんと面会をします。
また、身体障碍者の模範として厚生大臣賞を受賞し、天皇陛下からお言葉を賜ります。
久子は生涯一切公的な扶助を受けませんでした。

「いただかんでよかった」
「見世物小屋の住人でも、働かしてもらったことは大きな幸せだった。天皇陛下も厚生省も、見世物小屋におった住人でも、人間の一人としてあつかってくださったことは大きな感謝でございました。それからというものの、できるだけどんな人ともなるべく自分の力で働いていくよういつも申します。どんなところにも生きていく道はございます。」
と最後に語っています。

両手両足がないと嘆くよりも、人として生かされていることに感謝しながら生き抜かれた人生にただただ敬意を払う事以外思い浮かばないほどでした。
あれがない、これがない、あの人が悪い、世間が悪いなど私たちはとかく自分の境遇を他人や社会のせいにしがちですが、中村さんの生き方を読んで、自分で道を開く強さを自分自身が持たないといけないと改めて深く感じました。